忠臣蔵を知る

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1.刃傷松の廊下 切腹

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江戸時代中期の元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城松の廊下で播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩が高家肝煎の吉良上野介義央に対する恨みから刃傷に及びました。

この日は勅使が江戸城に登城し、将軍徳川綱吉が奉答する儀式が行われる予定であり、それを台無しにされたことに激怒した綱吉は、内匠頭を即日切腹、浅野家の断絶を命じました。

しかし、吉良上野介に対しては、殿中をはばかり、手向かいしなかったとして何の処罰もありませんでした。


2.浅野家断絶 城明け渡し

主君を失い、お家断絶を伝えられた赤穂藩では、家中が篭城か開城かで意見が対立していましが、城代家老 大石内蔵助良雄は、血を流すことなく城を明け渡す決断を下しました。

このとき、内蔵助に従う者は僅か60人〜80人でした。

3.内蔵助、山科に隠棲 放蕩の陰で仇討ちを計画

赤穂城を明け渡した後、内蔵助は親戚の進藤源四郎の世話で京都山科の家に隠れ住み、江戸にいる同志と連絡を取りつつ、内匠頭の弟 浅野大学長広を立てて主家の再興に努めました。しかし、幕府は翌元禄15年夏、大学に対して広島藩お預かりを言い渡しました。

ここで浅野家の再興は絶望的となり、吉良家への仇討ち以外の道は消え去ったのです。

内蔵助が隠棲した山科は、閑静で人目につきにくく、しかも交通便利な土地であり、しばしば同志の会合も開かれました。この地に住みながら内蔵助は、敵の目を欺くため、祇園や伏見などで遊興にふけりつつ、着々と仇討ちの計画を進めていたのです。

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4.吉良邸討入り

元禄15年12月14日(1703年1月30日)夜、大石内蔵助以下四十七士は吉良邸へと向かいました。表門からは内蔵助を頭として片岡源五右衛門ら24名、裏門からは内蔵助の長男大石主税を頭に堀部安兵衛ら23名がそれぞれ邸内に討入りました。

四十七士は、屋敷のあちこちで敵・吉良上野介を探しながら吉良の家来たちと刃を交えます。屋敷内をくまなく探しましたが上野介は見つからず、夜も明け始めたころ、ようやく炭小屋に隠れていた上野介を探し当て、討ちました。

死体を検分すると額と背中には松の廊下で内匠頭が切りつけた際の傷跡があり、亡君の仇に間違いありません。このとき、四十七士たちが男泣きする声を隣家の土屋家の住人が聞いていました。


5.義士 泉岳寺で亡君とともに眠る

本懐を遂げた義士たちは、亡君の眠る泉岳寺へ向かい、上野介の首を墓前に捧げ、仇討ちが終わったことを報告しました。

その後、義士たちは細川・松平(久松)・毛利・水野の四家へお預けとなりましたが、その処置をめぐっては幕府内で意見の対立がありました。苦慮した将軍綱吉は毘沙門堂門跡 公辧法親王に意見を求めたところ、「亡君の意思を継いで仇を討つということは比類なき忠義のことだとは思う。しかし、もしこの者どもを助命して後に堕落する者が出たらどうであろうか。今回の義挙にまで傷がつくことになる。だが、今、死を与えれば、この話は後世にまで語り継がれるだろう。時には死を与えることも情けとなる。」との答えがあり、綱吉は切腹を命じる決意をしたといわれます。

こうして義士たちは、元禄16年2月4日(1703年3月20日)、切腹し、主君 浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に葬られました。

余談ながら・・・
 「忠臣蔵」という名前の由来は、蔵いっぱいの忠臣という意味や大石内蔵助の「蔵」に掛けているというような諸説ありますが、定かではありません。

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